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スタッフブログ

アサヒグループ大山崎山荘美術館のスタッフが交代で山荘の日々を綴るブログです。展覧会に関する内容や山荘のこと、四季の庭園についてなど、美術館のさまざまな情報をスタッフがご紹介します。イベントの最新情報もこちらでチェックしてください。

展覧会

河井展ご紹介その3 彗星の出現

展覧会

河井展ご紹介その2 陶器の道へ

展覧会

河井展ご紹介その3 彗星の出現

本日は、河井寬次郎が陶界にデビューしたころの初期の作陶についてご紹介いたします。

1920年、京都五条坂に自らの窯「鐘渓窯(しょうけいよう)」を手に入れた河井は、翌年髙島屋東京店(京橋)にて第1回目の個展を開き本格的なデビューを果たします。

当時の河井の作風は、中国や朝鮮の古作にならった緻密で技巧的なもので、この個展では180点を超える作品を発表し高い評価を得ました。

翌年刊行された作品集『鐘渓窯第一輯(しゅう)』のはしがきのなかで、東洋陶磁の第一人者であった奥田誠一(1883-1955)は「鐘渓窯は突如として陶界の一角に其姿を現はした」と大きな期待をこめて河井を称賛しています。彗星のごとく頭角を現した河井は、以降1925年の個展まで、順調に陶歴を重ねました。

本展でも、若き河井の作品をご覧いただくことができます。

中国・明代の官窯磁器を手本とした《白磁染付鳳凰文壺》(1922年)は、白磁素地に染付でみごとな鳳凰が描きこまれています。本作は、本展でご紹介する山本コレクションのなかでも古参のものです。

また、釉薬の研究に勤しんだ河井は、特に「辰砂」へのこだわりが強かったといいます。《青磁釉辰砂差瓶》(1924年頃)は、形を中国・宋代の青磁にならい、澄んだ青に辰砂の赤が添えられた釉薬の美しさが際立つ作品です。

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辰砂は好条件下のみでしか鮮烈な赤色を輝かせることのない釉薬です。河井はこの難しい釉薬の研究を重ね、晩年に至るまで好んで使いました。

河井の貴重な初期作品をぜひ、本展にてご覧ください。

M

建築

ブログで大山崎山荘ツアー⑤ 本館の中へ(悠々居)

春から不定期でアップしている「ブログで大山崎山荘ツアー」。

第5回目の今日は、いよいよ美術館の本館の中をご紹介します。早速、扉を開けて中に入ってみましょう!

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現在、受付エントランスとして使われているのは、前回のブログでご紹介した第一期の工事で建てられた平屋の部分です。1917年(大正7年)に完成した平屋の建物は「悠々居(ゆうゆうきょ)」と呼ばれていました。大山崎山荘の中でも一番歴史のある部分です。

イギリスの炭坑夫の住宅をモデルにして作られたといわれています。

本館ショップ.jpg天井は小屋組みの梁がむき出しになっています。

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玄関ホールには作り付けのソファーと暖炉があり、このコーナーの入り口には、大きな松の木の梁が使われています。

天井の直線的な梁とは違い、ゆったりとしたカーブを描いた梁は、日本の古い民家を思わせるような、和のテイストも感じられます。

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青いつややかなタイル張りの暖炉は往時、実際に使われていました。
獅子のようなレリーフが彫られています。よく見ると、左右の角にも...!
低めに作られたソファーは現在もお座りいただけます。

LL補正暖炉.jpg

ミュージアムショップを横目に進むと、1922年(大正11年)からの第2期に増築された部分に入ります。
右手には、石造りの廊下があります。

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廊下に入ってすぐのこの横のドアは、1996年(平成8年)に美術館としてオープンする際に建てられた「地中の宝石箱(地中館)」へとつながります。
モネの【睡蓮】をはじめとした、西洋美術コレクションが展示されています。

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今日は、赤い星の部分をご紹介しました。

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次回は石造りの廊下の先にある、現在の「展示室2」をご紹介したいと思います。

お楽しみに!




*大山崎山荘の昔の写真など、詳しくは「アサヒビール大山崎山荘美術館 ガイドブック」に掲載されています。ミュージアムショップで販売しておりますので、ご来館の際にご覧いただければ幸いです。




IK

展覧会

河井展ご紹介その2 陶器の道へ

長かった梅雨もようやく明け、猛暑の季節となりました。当館でも蝉の声がひときわ高く聞こえてまいります。

本日は、河井寬次郎の生い立ちと、作陶をはじめた初期のころのエピソードをご紹介いたします。

河井は1890年、島根県の代々大工の棟梁を務める家に生まれました。学生時代は非常に優秀な生徒で、学業のみならずスポーツや文筆、弁論にも長けていたといいます。中学校卒業の際には、学術優秀・品行方正であったことから漢和辞典を賞与されています。

河井が陶の道へ進む決心をしたのは1906年、16歳のとき。医師であった叔父の助言がきっかけでした。

1910年に東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科に入学し、近代陶芸の開拓者として名高い陶芸家、板谷波山(いたやはざん)らの指導を受けました。河井は師弟関係を重んじる当時の陶工界において、学校教育を経て活躍する新世代の陶芸家でもありました。

本展では、工業学校時代の貴重な河井のノート(河井寬次郎記念館蔵)をご紹介しております。

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焼き物の命ともいえる窯に関しては特に熱心に勉強していたといい、自ら引いた図面とともに講義の内容が書き記されています。丁寧にまとめられたノートからは、勤勉で几帳面な河井の性格を垣間見ることができます。

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工業学校を卒業するとともに京都市(立)陶磁器試験場に入ると、小森忍や濱田庄司らと釉薬や古陶磁の研究をおこないました。濱田とは1万種に及ぶ釉薬の研究と試作に取り組んだといい、その後「釉の河井」と称されるようになる河井の高い技術はこのときに培われたものなのでしょう。

試験場を辞して2年後、技術顧問を務めていた清水六兵衛から窯を譲り受け、はじめて自らの窯を得ます。「鐘渓窯(しょうけいよう)」と名付けたこの窯にて、以降のほとんどの作品が制作されました。本年2020年は、河井が窯を手に入れてからちょうど100年にあたる、節目の年です。「鐘渓窯」は現在、京都の河井寬次郎記念館で公開されています。河井生前のままのすがたを目にすることができますので、ぜひ訪れてみてくださいね。

(М)