スタッフブログ

展覧会

企画展「蘭花譜と大山崎山荘展」1万人のお客様

開催中の企画展「加賀正太郎没後70年・ニッカウヰスキー90周年記念 蘭花譜と大山崎山荘 ―大大阪時代を生きた男の情熱」は、本日1万人目にあたるお客様をお迎えしました。東京からお越しいただいたご家族です。

DSC00327.JPG

美しい新緑とともに記念撮影

岡山と大阪の美術館を巡ってきたというお二人は、東京に戻る前に「どうしても気になる美術館がある」と当館に立ち寄ってくださいました。美術館巡りが大好きだというお嬢様は、ミラノやパリの名だたる美術館にも行ったことがあるという本物志向。是非当館でも美しいものをたくさん見て、感性を磨いていただきたいと思います。

DSC00333.JPG

館長より記念品の贈呈

企画展「加賀正太郎没後70年・ニッカウヰスキー90周年記念 蘭花譜と大山崎山荘 ―大大阪時代を生きた男の情熱」は、2024年5月12日(日)まで。
庭園の新緑が美しい季節となりました。展覧会とともに庭園散策もお楽しみください。
皆様のお越しをお待ち申し上げております。

蘭花譜と大山崎山荘展 詳細はこちら

(OT)

展覧会

男たちの情熱のゆくえー加賀とニッカと山荘と:その2

1952年、苦境にあったニッカに元日本銀行統計局長だった土井太郎が入社すると、病床の加賀は土井と盛んに手紙をやり取りします。1950年頃から咽頭がんを患っていた加賀は、土井に宛てた手紙のなかで、自身の体調にふれることもありました。1952年8月6日付の手紙では、小康を得ているが、癌という時限爆弾を抱えているようなものなのでそれを自覚し、明朗に天寿を全うしたい、あわてず騒がず急を要するものを優先し出来るだけの事をするしかない、死は人生に唯一均等な鉄則である、と、冷静に語っています。彼の人柄が垣間見えるようです。

また戦後の自身の事業について、林業は自然の力が主体で、証券業はすでに回復した。残る心配はニッカだけだ、と述べ、闘病生活のなかでニッカの経営について心をくだいていたことが伝わります。

(3につづく)

展覧会

男たちの情熱のゆくえー加賀とニッカと山荘と:その1

現在開催中の企画展「加賀正太郎没後70年・ニッカウヰスキー90周年記念 蘭花譜と大山崎山荘 ―大大阪時代を生きた男の情熱」では、加賀正太郎とニッカウヰスキーとのつながりを知ることのできる資料を展示しています。全4回の連載で担当学芸員が加賀とニッカの物語をご紹介します。

ジャパニーズウイスキーの父として知られる竹鶴政孝と加賀との出会いは偶然でした。1923年、当時寿屋(現サントリーホールディングス株式会社)の社員だった竹鶴はウイスキー工場建設のため、山崎(大阪府)に赴任します。数年後、竹鶴夫人・リタが加賀夫人・千代子に英語を教えることとなり、両家の交流がはじまりました。

1934年、竹鶴は加賀商店を突然訪れ、アップル・ジュース製造への出資を求めます。一度はその話を断った加賀でしたが、旧知の仲であった芝川又四郎の説得を受け、大日本果汁株式会社(のちのニッカ)設立に出資します。展示中の「ニッカ小史」という加賀の手記には、設立当初から戦時中にかけてのニッカの内情がつぶさに語られています。

(2につづく)