1. スタッフブログ

スタッフブログ

アサヒグループ大山崎山荘美術館のスタッフが交代で山荘の日々を綴るブログです。展覧会に関する内容や山荘のこと、四季の庭園についてなど、美術館のさまざまな情報をスタッフがご紹介します。イベントの最新情報もこちらでチェックしてください。

展覧会

男たちの情熱のゆくえー加賀とニッカと山荘と:その2

1952年、苦境にあったニッカに元日本銀行統計局長だった土井太郎が入社すると、病床の加賀は土井と盛んに手紙をやり取りします。1950年頃から咽頭がんを患っていた加賀は、土井に宛てた手紙のなかで、自身の体調にふれることもありました。1952年8月6日付の手紙では、小康を得ているが、癌という時限爆弾を抱えているようなものなのでそれを自覚し、明朗に天寿を全うしたい、あわてず騒がず急を要するものを優先し出来るだけの事をするしかない、死は人生に唯一均等な鉄則である、と、冷静に語っています。彼の人柄が垣間見えるようです。

また戦後の自身の事業について、林業は自然の力が主体で、証券業はすでに回復した。残る心配はニッカだけだ、と述べ、闘病生活のなかでニッカの経営について心をくだいていたことが伝わります。

(3につづく)

展覧会

男たちの情熱のゆくえー加賀とニッカと山荘と:その1

現在開催中の企画展「加賀正太郎没後70年・ニッカウヰスキー90周年記念 蘭花譜と大山崎山荘 ―大大阪時代を生きた男の情熱」では、加賀正太郎とニッカウヰスキーとのつながりを知ることのできる資料を展示しています。全4回の連載で担当学芸員が加賀とニッカの物語をご紹介します。

ジャパニーズウイスキーの父として知られる竹鶴政孝と加賀との出会いは偶然でした。1923年、当時寿屋(現サントリーホールディングス株式会社)の社員だった竹鶴はウイスキー工場建設のため、山崎(大阪府)に赴任します。数年後、竹鶴夫人・リタが加賀夫人・千代子に英語を教えることとなり、両家の交流がはじまりました。

1934年、竹鶴は加賀商店を突然訪れ、アップル・ジュース製造への出資を求めます。一度はその話を断った加賀でしたが、旧知の仲であった芝川又四郎の説得を受け、大日本果汁株式会社(のちのニッカ)設立に出資します。展示中の「ニッカ小史」という加賀の手記には、設立当初から戦時中にかけてのニッカの内情がつぶさに語られています。

(2につづく)

展覧会

蘭花譜と大山崎山荘―大大阪時代を生きた男の情熱 ご紹介その4

開催中の企画展「加賀正太郎没後70年・ニッカウヰスキー90周年記念 蘭花譜と大山崎山荘―大大阪時代を生きた男の情熱」より、展示室のようすをお届けします。
本館2階の喫茶室では、当館蔵の山本爲三郎コレクションより、河井寬次郎の作品を展示しています。

DSC09931.JPG

左から《海鼠釉皿》1930年頃、《海鼠釉線文瓶》1927



こちらのケースに並んでいるのは、海鼠(なまこ)釉を用いた作品です。

海鼠釉とはその名のとおり、海に生息する海鼠の色味にちなんで名づけられたもので、うつわの表面には藍や淡緑色など、複雑に混じりあった色が現れます。


DSC09927.JPG《海鼠釉皿》部分


《海鼠釉皿》一面に見られる、藍色の濃淡が生み出す海鼠釉の絶妙な表情は、「釉薬の魔術師」とよばれた河井ならではのもので、いくら見ても見飽きることがありません。
また、丸皿を縁取る褐色が全体の印象を引き締めています。


喫茶室では現在、
リーガロイヤルホテル協力のもと、企画展にちなんだ特製オリジナルスイーツを数量限定で提供しています。
展示の鑑賞後は、喫茶室の作品をじっくり味わいながら、あるいはテラスで新緑のさわやかな空気を感じながら、美味しいスイーツを召しあがってはいかがでしょうか。
スイーツの詳細はこちらのブログをご覧ください。


企画展「加賀正太郎没後70年・ニッカウヰスキー90周年記念 蘭花譜と大山崎山荘―大大阪時代を生きた男の情熱」は、5月12日(日)まで開催中です。
皆さまのお越しを心よりお待ち申しあげます。

(TM)