スタッフブログ
河井展ご紹介その3 彗星の出現
本日は、河井寬次郎が陶界にデビューしたころの初期の作陶についてご紹介いたします。
1920年、京都五条坂に自らの窯「鐘渓窯(しょうけいよう)」を手に入れた河井は、翌年髙島屋東京店(京橋)にて第1回目の個展を開き本格的なデビューを果たします。
当時の河井の作風は、中国や朝鮮の古作にならった緻密で技巧的なもので、この個展では180点を超える作品を発表し高い評価を得ました。
翌年刊行された作品集『鐘渓窯第一輯(しゅう)』のはしがきのなかで、東洋陶磁の第一人者であった奥田誠一(1883-1955)は「鐘渓窯は突如として陶界の一角に其姿を現はした」と大きな期待をこめて河井を称賛しています。彗星のごとく頭角を現した河井は、以降1925年の個展まで、順調に陶歴を重ねました。
本展でも、若き河井の作品をご覧いただくことができます。
中国・明代の官窯磁器を手本とした《白磁染付鳳凰文壺》(1922年)は、白磁素地に染付でみごとな鳳凰が描きこまれています。本作は、本展でご紹介する山本コレクションのなかでも古参のものです。
また、釉薬の研究に勤しんだ河井は、特に「辰砂」へのこだわりが強かったといいます。《青磁釉辰砂差瓶》(1924年頃)は、形を中国・宋代の青磁にならい、澄んだ青に辰砂の赤が添えられた釉薬の美しさが際立つ作品です。
辰砂は好条件下のみでしか鮮烈な赤色を輝かせることのない釉薬です。河井はこの難しい釉薬の研究を重ね、晩年に至るまで好んで使いました。
河井の貴重な初期作品をぜひ、本展にてご覧ください。
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河井展ご紹介その2 陶器の道へ
長かった梅雨もようやく明け、猛暑の季節となりました。当館でも蝉の声がひときわ高く聞こえてまいります。
本日は、河井寬次郎の生い立ちと、作陶をはじめた初期のころのエピソードをご紹介いたします。
河井は1890年、島根県の代々大工の棟梁を務める家に生まれました。学生時代は非常に優秀な生徒で、学業のみならずスポーツや文筆、弁論にも長けていたといいます。中学校卒業の際には、学術優秀・品行方正であったことから漢和辞典を賞与されています。
河井が陶の道へ進む決心をしたのは1906年、16歳のとき。医師であった叔父の助言がきっかけでした。
1910年に東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科に入学し、近代陶芸の開拓者として名高い陶芸家、板谷波山(いたやはざん)らの指導を受けました。河井は師弟関係を重んじる当時の陶工界において、学校教育を経て活躍する新世代の陶芸家でもありました。
本展では、工業学校時代の貴重な河井のノート(河井寬次郎記念館蔵)をご紹介しております。
焼き物の命ともいえる窯に関しては特に熱心に勉強していたといい、自ら引いた図面とともに講義の内容が書き記されています。丁寧にまとめられたノートからは、勤勉で几帳面な河井の性格を垣間見ることができます。
工業学校を卒業するとともに京都市(立)陶磁器試験場に入ると、小森忍や濱田庄司らと釉薬や古陶磁の研究をおこないました。濱田とは1万種に及ぶ釉薬の研究と試作に取り組んだといい、その後「釉の河井」と称されるようになる河井の高い技術はこのときに培われたものなのでしょう。
試験場を辞して2年後、技術顧問を務めていた清水六兵衛から窯を譲り受け、はじめて自らの窯を得ます。「鐘渓窯(しょうけいよう)」と名付けたこの窯にて、以降のほとんどの作品が制作されました。本年2020年は、河井が窯を手に入れてからちょうど100年にあたる、節目の年です。「鐘渓窯」は現在、京都の河井寬次郎記念館で公開されています。河井生前のままのすがたを目にすることができますので、ぜひ訪れてみてくださいね。
(М)
河井展ご紹介その1 河井寬次郎と山本爲三郎
本日より当ブログにて、ただいま開催中の「生誕130年河井寬次郎展 -山本爲三郎コレクションより」にあわせて、展覧会について特集してまいります。本日は、河井寬次郎とアサヒビール初代社長山本爲三郎の生涯にわたる関係をご紹介いたします。
山本コレクションの河井作品には、作陶の初期から晩年までの作品が含まれています。幅広い年代の河井の作陶を望むことができる山本コレクションは、ふたりの親交の証といえます。
河井は1890年、山本は1893年に生まれ、同じ時代に活躍しました。山本はまだ河井が民藝運動に没頭する以前の作品を個展にて購入しており、大正期からの関係がうかがえます。
とりわけ活発な交流がみられるのは1920年代後半から1930年代にかけて、河井が柳宗悦や濱田庄司らと民藝運動を興し、運動が本格化をみせたときです。この民藝運動を支えた立役者こそ山本でした。
(左から 河井寬次郎、山本爲三郎)
1928年の御大礼記念国産振興東京博覧会において、河井をはじめ民藝の同人たちは、木造平屋の1棟に民藝の精神にかなう品を展示する「民藝館」を出陳します。
山本はこの事業を支援し、会期終了後には大阪の自邸に「民藝館」の建築を什器ごと移しました。「三國荘(みくにそう)」と名づけられたこの場所は、山本家の生活の場であるとともに、民藝運動の拠点ともなったのです。
三國荘の芳名録には河井の訪問記録がのこり、山本の日記には、三國荘での面会や自ら京都の河井邸を訪ねたことなど、河井の名がたびたび記されています。河井は三國荘に足しげく通うとともに、山本家のためにさまざまなうつわを制作しています。山本家の食卓で実際に愛用されていた皿や碗、鉢などの組物が多くのこされているのは、山本コレクションの大きな特徴です。
山本はその後も日本民藝館の設立や河井の個展に際して、その活動を支援し見守りつづけ、戦争という暗い時代を乗り越えながら制作に挑む河井と交流をもちました。終生にわたって親交した山本の存在は、河井にとってかけがえのないものだったのでしょう。1966年、山本の逝去の際には追悼文を寄せ、約8か月後、奇しくも同年に河井もその生涯を終えました。
ぜひ本展にて、河井と山本との絆の強さを感じることのできる作品の数々をご覧ください。
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