河井展ご紹介その1 河井寬次郎と山本爲三郎
本日より当ブログにて、ただいま開催中の「生誕130年河井寬次郎展 -山本爲三郎コレクションより」にあわせて、展覧会について特集してまいります。本日は、河井寬次郎とアサヒビール初代社長山本爲三郎の生涯にわたる関係をご紹介いたします。
山本コレクションの河井作品には、作陶の初期から晩年までの作品が含まれています。幅広い年代の河井の作陶を望むことができる山本コレクションは、ふたりの親交の証といえます。
河井は1890年、山本は1893年に生まれ、同じ時代に活躍しました。山本はまだ河井が民藝運動に没頭する以前の作品を個展にて購入しており、大正期からの関係がうかがえます。
とりわけ活発な交流がみられるのは1920年代後半から1930年代にかけて、河井が柳宗悦や濱田庄司らと民藝運動を興し、運動が本格化をみせたときです。この民藝運動を支えた立役者こそ山本でした。
(左から 河井寬次郎、山本爲三郎)
1928年の御大礼記念国産振興東京博覧会において、河井をはじめ民藝の同人たちは、木造平屋の1棟に民藝の精神にかなう品を展示する「民藝館」を出陳します。
山本はこの事業を支援し、会期終了後には大阪の自邸に「民藝館」の建築を什器ごと移しました。「三國荘(みくにそう)」と名づけられたこの場所は、山本家の生活の場であるとともに、民藝運動の拠点ともなったのです。
三國荘の芳名録には河井の訪問記録がのこり、山本の日記には、三國荘での面会や自ら京都の河井邸を訪ねたことなど、河井の名がたびたび記されています。河井は三國荘に足しげく通うとともに、山本家のためにさまざまなうつわを制作しています。山本家の食卓で実際に愛用されていた皿や碗、鉢などの組物が多くのこされているのは、山本コレクションの大きな特徴です。
山本はその後も日本民藝館の設立や河井の個展に際して、その活動を支援し見守りつづけ、戦争という暗い時代を乗り越えながら制作に挑む河井と交流をもちました。終生にわたって親交した山本の存在は、河井にとってかけがえのないものだったのでしょう。1966年、山本の逝去の際には追悼文を寄せ、約8か月後、奇しくも同年に河井もその生涯を終えました。
ぜひ本展にて、河井と山本との絆の強さを感じることのできる作品の数々をご覧ください。
(M)